禅僧小噺

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第225話 「年末の掃き掃除」

岩迫 祐都 Iwasako Yuto



 早いもので今年も残り十数日になりました。皆さんは年末をどのように過ごされますか。私は大掃除をして年末を過ごします。

 山口県にある実家のお寺では二日かけて年の瀬に大掃除をします。いつもは行き届かない場所を念入りに行います。家族三人で役割分担し、窓ふき、雑巾がけ、外の掃き掃除など細かいところもチェックしながら進めていきます。

 私の担当は毎年、境内までの参道の掃き掃除です。お寺は山の中にあり木がたくさんあるので冬の時期は落ち葉がどんどん溜まります。掃き始めると、「これ本当に終わるのかな」とか、「早く終わらせて暖かい部屋でまったりしたいな」と思います。ある程度掃いてから休憩をしている時に、掃き終わっている場所を見ると「よし!あと少しだから頑張ろう。」という気持ちになります。掃き終わって参道を見たとき、「掃き残しはないかな」と改めて葉っぱ一つないように仕上げることで、私の大掃除が終了します。

 大晦日の夜、除夜の鐘を迎えたときに、お檀家さんから「やっぱりお寺さんは綺麗にされてるね」と声をかけてもらえると掃除してよかったなと心がすっきりするのです。
今年も参道の掃き掃除を担当することになるでしょう。除夜の鐘に来られたお檀家さんがすがすがしい気持ちで新年を迎えられるように参道を掃こうと思います。

(2019.12.12 駒沢坐禅教室より)

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第224話 「帰家穏坐」

秦 慧洲 Hata Eshu



 みなさんが初めて坐禅をしたのはいつでしょうか?私が始めて坐禅をしたのは、中学三年の時、実家のお寺での坐禅会。友人から坐禅をやってみたいと頼まれ、半ば強引に付き合わされたのがきっかけでした。
 お寺の住職である父は、私の友人に坐禅を教えながらこう言いました。

 「坐禅はいいぞ。何もないのだから」

 この言葉を聞いた時、私は正直「何をわけがわからないことを言っているんだろう」と思いました。実際に坐禅が始まっても足は痛いだけで、「坐禅なんて時間の無駄じゃないか」とモヤモヤした気持ちばかりが続き、私の初めての坐禅が終わりました。その後、福井県にある永平寺に修行へ行きましたが、相変わらず父の言葉が理解できない私がいました。坐禅中、どうしても坐禅以外のことが頭から離れず、いつも何かに追われて坐禅に集中できなかったのです。
 時は流れて、永平寺での修行を終えた私はお寺に戻って初めての坐禅会に参加しました。永平寺で行ったように鐘を三回鳴らして一緒に坐り始める私。すると不思議なことに、それまで感じることのなかった、どこかほっとした穏やかな気持ちになれたのです。それは実家に戻ったからなのだろうか。ただ坐禅とは本当に全てを手放すことが許される、何もない贅沢な時間なのだと直感的に思えたのです。
 「坐禅はいいぞ。何もないのだから」
中学の時、父が放ったあの言葉にようやく近づけたような気がしました。
 坐禅中は相変わらず足が痛いです。それでも私は父の言葉を噛みしめながら、今日も穏やかに坐っていきたいと心から思います。

(2019.11.30 駒沢坐禅教室より)

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第223話 「花のように」

武井 広機 Takei koki


“花には 人間のような かけひきがないからいい
ただ咲いて ただ散ってゆくからいい
ただにはなれない 人間のわたし”

これは、詩人・相田みつをさんが書かれた詩です。
この“ただ”という言葉は、今まさに私たちが行なっている坐禅を象徴する言葉ではないでしょうか。
坐禅は、ただひたすらに坐る。”ただ”だからいいんですよね。嘘がないから安心できて、そして心が安らぐのかなと感じます。
今日の私は、そんな花になってみたいと思います。

(2019.10.26 駒沢坐禅教室より)

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第222話 「心は海水のごとく、身は波浪の如し」

山内 弾正 Yamauchi Danjo


私たちの心。私たちの体。
みなさんだったら、どんな風に表現して、これらを言い表すでしょうか。

古い経典や語録の中では、心と体を様々な表現で語っています。

例えば、心は、稲妻のようだ、とか。心は画家のようだ、とか。

様々に表現される中でも、私は坐禅用心記の中の一節が好きです。

『心は海水のごとく、身は波浪の如し』

意訳すれば、心は海水のようで、体は波のようなものだよ。という意味です。
心は海水で、体は波。なんだか謎々のようで、初めて読んだ時はよくわかりませんでした。

しかし、実際に海原を想像した時に「あぁ、なるほど」と腑に落ちたことを覚えています。

皆さんも想像してみてください。広い海原に、無数の白波がたっているところを。
それは、どこからが海水で、どこからが波になるのでしょうか。

波と海水に境界線なんて無いように、私たちの心と体もまた、境界線なんてない1つのものなんだよ。
坐禅用心記の一節は、そんな風に私たちに教えてくれています。

寄せては返す波のように、長い息は長いままに、短い息は短いままに。

そんな、おおらかな海のように、私たち自身を調えていくことが、
私たちの心と体を穏やかにする坐禅の時間につながるのだと思っています。

願わくば、今日のこの坐禅のひとときが、皆さんの心に広がる海原を穏やかにしてくれるものであるようにと祈っています。




(2019.10.10 駒沢坐禅教室より)

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第221話 「つい食べ過ぎてしまう季節」

丹羽 隆浩 Niwa Ryuko


 朝晩涼しくなり、過ごしやすい日が多くなってきました。これからの季節は美味しいものが増える季節になります。日の光をたくさん浴びて育った野菜、この時期ならではの山菜、脂ののった魚。つい食べ過ぎてしまう季節でもあります。
 先日、つい度を超えて食べ過ぎてしまい、大事な事を忘れてしまっていました。友人とご飯を食べに行ったときのことです。お腹が減っていたので多めに料理を注文したのですが、食べきる前にお腹いっぱいになってしまいました。ですが、残したくなかったので、どうにか食べきることができました。その時の私は、苦しい、もうこんなに食べたくない。と思いながらお腹に詰め込んでいたのです。後から思うと、食べ物に対して随分と失礼なことをしていたなと反省しました。もったいないと思いながらも食べ物への感謝を忘れ、まるで作業のように行っていたのです。食べ物を無駄にしたくない思いが先走り、目の前の食材の命を考えていませんでした。

食べ物のいのちをいただくことを改めて考え、自分がおいしく食べられる量を知り、感謝の心をもって秋の味覚を味わいたいと思います。

(2019.9.28 駒沢坐禅教室より)

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第220話 「掃除すること、挑戦すること」

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen

私は掃除が好きです。その理由は掃除をすると新しいことに挑戦してみようという気持ちがどこからか湧いてくるからです。

小学生の私は、学校の掃除や父親から境内や本堂の掃除をしろと言われて掃除を始めることが多く、イヤイヤ行う掃除は嫌いでした。

しかし、イヤイヤながらも掃除を始めると「あそこも汚れている、あっ!あっちも」と、汚れを見つけてキレイにすることに快感を覚えていくのです。すると、掃除をする時間がどんどん長くなっている自分がいました。

そうして自分が納得いくまで掃除ができた時、何か掃除以外のことを自然としたくなる。
掃除をすると掃除した場所がきれいになるのは当たり前ですが、掃除した自分の心も清清しく、きれいになっているのではないでしょうか。そんな時、私は決まって、何か新しいことに挑戦してみようかなと自然に思えてくるのです。だから私は掃除が好きです。

(2019.9.26 駒沢坐禅教室より)

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第219月話 「欲がなければ始まらない」

久松 彰彦 Hisamatu Syougen

電子機器の多くは、起動している時よりも、起動する際に多くの電力を必要とするそうです。手押し車なども、動き始めるまでが大変です。懸命に力を込め、動き出してからはさほど力を必要としません。
私たちの日常もまた同じではないでしょうか。毎日行なっているものはそれほど努力せずともできます。けれど新しいことを始めようとするには、強い意志が必要です。
何か新しいことをしよう、自分をよくしようといった前向きな意志も、仏教的な視点から見ると、一種の欲になります。欲と言われると、これは何か悪いことなのかな、とも思ってしまいますね。けれど、必ずしも悪いものだとは考えられていません。
「欲とは精進の拠り所である」という意味の言葉があります。自分を変えたいという欲がなければ、自分を変える一歩は踏み出せません。自分を変えたいという欲があるからこそ、その一歩が踏み出せるのです。
その一歩が踏み出せたら、そしてそれが習慣になったら、この欲というものがなくともあゆみ続けていくことができるのでしょう。
欲とは否定されるものではなく、歩みの中で不要になっていくものなのかもしれません。



(2019.9.12 駒沢坐禅教室より)

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第218話 「雨の音」

丹羽 隆浩 Niwa Ryuko

私はこの季節、雨の音を聞きながらの坐禅が好きです。
この時期、永平寺の坐禅堂では、障子も窓も開けて座るので、雨の日は、窓の外からいろいろな音が聞こえてきます。
ぱらぱらと屋根に落ちる音。ぴとぴと地面を打つ音。ぽつぽつと葉っぱに当たる音。ぴちょんと滴がはじける音。遠くには小鳥のさえずりも。
音には「ゆらぎ」というものが存在するそうです。規則的で単調に思えるリズムも、実は不規則な「ゆらぎ」がある。そのゆらぎを感じるとリラックス効果があると言われております。例えば、海のさざ波の音、小川のせせらぎ、木の葉っぱがこすれる音、人の歌声、
もっと身近な、私たちの心臓の鼓動や、呼吸のリズムにも「ゆらぎ」が現れています。
無数のしずくと、私のリズム。それぞれが調和して心地がいい。
気が付くと線香が燃え尽き、鐘が鳴る。
たまには、そのような坐禅の楽しみ方も、いいのかもしれません。


(2019.7.11 駒沢坐禅教室より)

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第217話 「師匠と弟子

岩迫 祐都 Iwasako Yuto

 私は学生時代、野球をしていました。野球を始めるきっかけはある選手の存在でした。その人は「ゴジラ」の愛称で親しまれた、松井秀喜選手です。恵まれた体格で、数々のタイトルを受賞しました。私は、松井選手の打つホームランを見て野球のとりこになりました。

 引退した後、松井選手が現役生活をこんな言葉で振り返っています。
「一番心に残っているのは、長嶋監督と二人きりで素振りをした時間かもしれない。長嶋さんからプロ野球選手としての心構え、練習の取り組み方、すべてを学び、20年間を支えてくれた」
 長嶋監督との出会いによって現役生活の20年間がかけがえのないものになったと語っています。

 瑩山禅師は書かれている書物の中で、「良き師匠に出会うと出会わないとでは人生が大きく変わり、また良き師に出会うことによって導かれる」と仰っています。

 まさに松井選手も長嶋監督という良き師に出会い、ゴジラと呼ばれる選手になるまで成長しました。
 師匠と弟子という関係性はまさにこのことだなと思い、良き師に巡り合い自分自身がその教えに導かれることが大切だと感じました。
 最後に、松井選手が、今度は指導者として再び日本に戻り、新たな選手の師匠となり次の世代が活躍していくことを心から願っています―


(2019.6.13 駒沢坐禅教室より)

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第216話 「桜の木

原山 佑成 Harayama Yusei

「駅前のやせた木の下で、大好きなタバコに僕は火をつける。大きな息を白く吐き出して僕は嫌な事をひとつ忘れる」
日本のフォークシンガーである竹原ピストルさんの「桜」という曲の一節です。
私はこの曲を聴くと一本の桜の木を思い浮かべます。

4月の終わりから、5月の初めまで10日間続いた大型連休。
私は、長野県の実家に帰省しておりました。
実家に帰ると、季節外れの桜の花が満開になっており、美しい桃色の粒達が私を迎えてくれました。
この桜の木の幹は、細く痩せこけており、ところどころ樹皮が剥がれてしまっている木なのですが、毎年5月の初めになると綺麗に花を咲かせ、この町にも長い冬が終わり本当の春がやって来たという事を教えてくれます。

他の花たちが咲いている時に、自分はじっと待ち続け、季節外れの美しい花を咲かせる。
一本だけ佇む遅咲きの桜の木の下で、僕は嫌なことをひとつ忘れる。

(2019.5.25 駒沢坐禅教室より)

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第215話 「私のヒーロー

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen

 昨年仏教系の保育園でこんな歌を歌いました。
「ののさまは口ではなんにも言わないがわたしのしたこと知っている」
ののさまとは観音さまのこと、そして観音さまは常に私達を見守っているという歌です。
では、観音さまはどこから見守っていてどこにいるのでしょうか?

 それの答えは私達の心の中にありました。
 自分の行いは誰も見ていなくても自分自身が一番良く知っています。観音さまが心にいて見守ってくれている、そう思ってする行動はすべて観音さまの行動なのです。

 この歌を歌いながら、私は自分の子供時代を思い出しました。
私は子供の頃からウルトラマンや戦隊ヒーローが大好きでした。悪者を倒して弱いものを救う。私の憧れです。
私は学生時代様々なことで悩まされます。特に友達から悪いことを誘われたときに、悩みすぎて心が苦しくなります。
そんな時、心の中のヒーローが私に語りかけます。「ヒーローならばどうするのか考えてごらん?」そうすることで、私は心の苦しさから開放されて前を向いて生きていけるのです。

 この歌を聞いた時、子供時代を思い出すと共に私の心のヒーローは実は観音さまだったのかもしれないと気づかされました。


(2019.4.27 駒沢坐禅教室より)

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第214話 「ヒットの先にみえるもの

秦 慧洲 Hata Eshu



 
 先日、野球のメジャーリーグで活躍していたイチロー選手が引退を発表しました。日本では7年連続首位打者、そしてアメリカでは10年連続200本安打やシーズン最多安打記録などの多くの記録を作った、まさに歴史に残るすばらしい選手でした。平成生まれの私にとってはあこがれだったイチロー。平成の終りとともに引退をすることに、時代の節目を感じてしまいます。
 イチロー選手の言葉は独特ですがとても説得力があります。その中でもひとつだけご紹介したいと思います。

「首位打者のタイトルは気にしない。順位なんて相手次第で左右されるものだから。自分にとって大切なのは自分。だから1本1本重ねていくヒットの本数を、自分は大切にしている」

他人と競いあうよりも、自分自身の積み重ねを大事にすること。私たちはつい他人と比較したり、日々の結果に一喜一憂してしまいます。誰よりも自分自身を冷静にみつめられたイチローだからこそ、ヒットを積み重ねることができたのだと思います。
引退した今もイチローはトレーニングを欠かさないそうです。その先には一体どんな未来を見据えているのでしょうか。



(2019.4.11 駒沢坐禅教室より)

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第213話 「変わるもの、変わらないもの

深澤 亮道 Fukazawa Ryodo



最近は特に「平成最後の」という言葉をよく耳にするようになりました。
 昭和最後の年に生まれた私にとって、平成は人生そのものであり、終わるのがどこか寂しい気持ちになります。しかし、振り返ってみるとあっという間の30年だったなという気持ちもあります。

 人は生きてきた時間の長さによって時間の感覚がだんだん短くなるそうです。
 例えば、生まれてから20歳まで20年間と比べて、20歳から40歳までの20年間の体感時間は半分になるそうです。子供の頃より、時間の流れが早く感じるということも頷けますね。そう考えると人生は本当あっという間に過ぎてしまう気がします。

 ここで、お釈迦様の言葉をご紹介します。
 「もろもろの事柄は過ぎ去るものである。怠ることなく精進せよ。」
 この言葉をお釈迦様が最後の言葉とされています。この言葉を最後に約2500年前の2月15日、お釈迦様は静かに息を引き取られました。

 時代の流れ、人生はどんどん移ろいゆきますが、お釈迦様の教えや言葉、坐禅は2500年経った今でも変わらず伝わっているものがあります。その教えの通り、怠ることなく精進したいものです。


(2019.2.9 駒沢坐禅教室より)

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第212話 「テレビ

久保田 智照 Kubota Chisho


 年末年始の楽しみの一つ。テレビ。
 普段、私はテレビ番組をあまり見ないのですが、こと年末年始に限っては、格闘技番組やおじさんが一人でご飯を食べ続けるドラマ、箱根駅伝など楽しみにしている番組があります。また、チャンネルを人任せで、かけ流しにしているテレビを見て、ゆったりとした時間が流れるというのもお正月らしさなのかなあ、という風に思います。

 ゆるゆるとお正月の時間を過ごす中で、今年は、非常に印象的な番組に出会いました。それは「いつやるの、今でしょ!」のフレーズで有名な林修先生が、高学歴ニートに授業をするという番組です。早慶、東大などの名だたる大学を出ている彼らに、どのような話をするのか。興味津々で視聴しました。
 お釈迦様の説法を、対機説法と表現することがありますが、これは仏法を説く際、相手の資質に応じて理解のゆくように説き聞かせることを言います。番組が始まり、先生が、取ってつけたような正論ではなく、また叱るでもなく、ニートである彼らの感情に理解を示しつつ、時に自身の経験も交えながら、受け入れやすい形で理論を展開していく様子を見ていて、まさにこの対機説法に近いものがあると驚き、感心しておりました。
 そのような講義を受けた高学歴ニートたちがどう変わっていったか。特に一人の受講者の表情の変化が印象的に心に残りました。
 林先生の登場時点から、彼は常に半笑いでいました。先生の話を聞きながらも、どこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている彼。きっと彼は、これまでニートであることに対し、周囲にあれこれと言われ続けてきたのだと思います。叱咤、激励……様々言われる中で、彼の心を本当に動かすものがなかった。その結果、あの、人を小馬鹿にしたような表情が生まれたのではないか。そんな風に感じていました。「どうせ、正論だろ」「いくら言われたって無駄さ」そんな凍てついた思いがあの表情には込められていたように思うのです。しかし、そんな彼の表情が先生の話を聞くにつけ少しずつ変化していきました。驚きや、納得の表情。最後には、「この話を聞けて良かった」「こういう話が聞きたかった」と、いうようなすっきりした笑顔に変わっていました。

 番組を通じて、立場や背景など、誰かに話をする際には、まず初めに相手を理解しようとすることが大切なのだなあ、とあらためて確認することができました。たまには面白そうなテレビ番組をチェックしてみるのも良いかもしれない。そう思えたお正月の一幕でした。


(2019.1.12 駒沢坐禅教室より)

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第211話 「乳水和合

本田 真大 Honda Shindai


道元禅師の言葉に「乳水和合」という言葉があります。
水と乳が、異なる液体でありながら混ざり合うように、共に修行する僧侶は、互いを認め合い、尊重しなさい。という教えです。

私たち僧侶は、一度修行道場の門をくぐると、年齢や経験、それまでの生い立ちなど、一切関係なく、共に和合して同じ修行に励みます。

そしてそれはこの坐禅堂でも、同じです。

ここには、様々な立場の人達が集まっています。
しかし、お互いに一礼して単の上に上がれば、あとは姿勢と呼吸を調えるだけ。それ以外は何もありません。

年齢や性別、職業や肩書き、日常で私たちが知らず知らずのうちに背負っている役割を一旦、横に置いて、共に坐ってまいりましょう。


(2018.11.15沢坐禅教室より)

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第210話 「私が気づいた坐禅の魅力

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen


みなさんには、理想の坐禅はありますでしょうか?
あるという人は、自分の坐禅と理想の坐禅を比べて落ち込むこともあるのではないでしょうか?
実は、私がそうでした。

自分の理想とする坐禅があり、いつももっと綺麗に坐りたい。
もっと落ち着いて坐りたいと思い、それができていない自分の坐禅をダメな坐禅と思っていました。
ダメな坐禅と思って坐ると、どうしても坐禅に対して苦手意識を持ってしまいます。

そんな私の考えを変えてくれたのがここ、駒沢坐禅教室です。
ここにいる皆さんと坐禅をするようになって1年半、仕事が終わって急いで来ている人、遠くから電車を乗って来ている人、色々な人と触れ合い、話をする中で、ここにいる皆さんは自ら望んで坐禅をしていることを知りました。
では何故、自ら望んで坐禅をしたくなるのか。
それはこの駒沢坐禅教室という空間や、今という時間こそがなによりも尊いものなんのだと。気づきました。
それに気づくと理想を追い求めて坐っていた坐禅を辞め、それよりも皆さんと一緒に坐れるこの時、この空間を大切にしたいと思うことができたのです。

本日も皆様と一緒に坐禅できることに感謝して坐っていきたいと思います。

(2018.11.8 駒沢坐禅教室より)

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第209話 「いつまでも柔らかいこころ

武井 広機 Takei Koki


相田みつをさんの詩で、こんな詩があります。

やわらかい あたま
やわらかい こころ
わか竹のような

 相田みつをさんは道元禅師やお釈迦様の教えを学ばれ、それが多くの詩に影響したと言われています。この詩も、その一つです。

やわらかいこころとは、何事にも囚われない、素直なこころのこと。
きれいな花を見たら、あぁきれいだなぁ…と、感じる。
相手の良いところは良いなぁ…と、素直に認める。
わか竹はしっかり根を張り、強い風でも囁くような風でも、どんな風でも倒れることなく揺れます。
そんな“わか竹”のように、柔軟に揺れる、素直で大らかなこころをいつまでも持ちたいものです。



(2018.10.18 駒沢坐禅教室より)

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第208話 「今を生きるという教え

山岸 弘明 Yamagishi Komei


私が修行道場で修行していた頃、
ある老師が私に、事あるごと次の様に話してくださいました。
「いままでどうしてきたかではなく、今どう行動するかが大事なんだよ」と。
私に怠け心が出てくるとすぐに老師は見抜き、叱ってくださいます。
この「今を生きる」という教えはこの坐禅堂の木版にも書かれています。
いつも坐禅堂に入る前にパコパコと鳴る鳴らし物が木版です。そこには
このように書かれています。皆様も後でご確認ください。

「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」
(しょうじじだい  むじょうじんそく
おのおのよろしくせいかくすべし  つつしんでほういつなることなかれ)

この言葉は
いつ死んでしまうかわからない私たちは今をどう生きるかが大事である。
怠(おこた)ることなく精進しましょう。
という意味です。
今は修行道場を離れ、あの老師になかなか会うことはできませんが、
坐禅の最後にいつも鳴る木版の音を聞くと私はあの老師に
「坐禅はこれで終わるけれども坐禅を行じたあとどう生きるかが大事だぞ」
と励まされている気がして身が引き締まる想いがするのです。


(2018.10.4 駒沢坐禅教室より)

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第207話 「オンエア

山内 弾正 Yamauchi Danjo


TVやラジオなどで、「オンエア」という言葉を聞いたことはないでしょうか。
番組が放送中であることを意味する言葉です。

「オンエア」は、もともと英語で、
空気の上にのせることを表すオンザエアが語源となっています。

なぜ、空気の上にのせることと、TVやラジオを放送することがつながるのでしょうか。

それは、私たちが常に、この空気を介して自分自身の想いを伝え、誰かの気持ちを受け取っているからです。

空気を震わせることで言葉を発し、その震動を受け取ることで声を聞く。

それがTVやラジオであっても、たわいのない会話であっても、誰かになにかを伝えるために、私たちはこの空気に想いをのせるのです。

そしてそれは、言い換えれば、私たちが常にこの空気によって、ほかの誰かと繋がっているともいえるでしょう。

今、ただ一人で座っているようでも、この坐禅堂の中の空気を伝って、私とみなさんは繋がっています。

「On-Air」。空気にのせることができるのは、なにも言葉だけではありません。

今の私たちが、この坐禅堂の中で静かに足を組めるのは、この場にいるみなさん一人ひとりが、この場の空気に自身を委ね、今日のこの、坐禅堂の中の空気と一体になっているからです。

その空気に満たされた特別な空間で、坐禅を通じた互いの繋がりをゆっくり味わいながら、静かに坐ってまいりましょう。



(2018.9.29 駒沢坐禅教室より)

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第206話 「世界の見え方

秦 慧洲 Hata Eshu


今年の夏、私は上野の国立科学博物館でやっている昆虫展を見に行きました。そこでは虫の立場から見える世界観が展示されており、私はすっかり虫の魅力に惹かれました。例えば、虫の視力はほとんどないといわれていますが動体視力はとても優れ、さらに複数の眼を持つことからあらゆる角度を見通すことが出来ます。色の見え方も人間とは全く異なり、例えば白い花は青く見えたりするそうです。このように同じ世界にいても、人間と虫では世界の見え方が全く異なるのです。
 仏教の言葉で「仏の眼」と書いて、「仏(ぶつ)眼(げん)」という言葉があります。仏の眼、つまり真実を見通す悟りの眼は、この世界をありのままに見ることが出来ると言われています。一方、私たちが今目の前に見ているこの世界は本当にありのままなのでしょうか。当たり前と思っているこの世界は、虫たちから見ればまた違った世界となっているように、この世界をありのままに見通すこと、それはとても難しいことなのです。大事なことは世界には様々な見え方がある。そのことに気づくだけでも、この世界はまた違った景色を見せてくれるのではないでしょうか。


(2018.9.27 駒沢坐禅教室より)

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第205話 「湧いてくる思いに自分を見る

久松 彰彦 Hisamatsu Shogen


坐禅をしていると、いろいろな思いが浮かんできます。熱いな、寒いな、あしが痛いなといったこと。また、以前あった嫌なことであったり、これから先の不安が浮かぶこともあるでしょう。そして、そうした思いが浮かぶたびに、これはいけない。坐禅に集中できていない。もっと頑張らねば、と考えるかもしれません。

 沢木興道老師は坐禅中に湧いてくる思いについて、それは「自分自身の内容が浮かび上がってくるのだ」とおっしゃっています。

 坐禅という静けさの中で、普段気に留めない思いが出てくる。これは自然なことであり、自分とは切っては離せないことなのです。

 坐禅は自分自身と向き合うことだと表現されることもあります。自然と湧いてくる自分自身の内容、それを受け止めていくことが、自分自身と向き合うことの一歩になるのではないでしょうか。


(2018.9.13 駒沢坐禅教室より)

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第204話 「今を生きるという教え

山岸 弘明 Yamagishi Komei


私が修行道場で修行していた頃、ある老師が私に、事あるごと次の様に話してくださいました。


「いままでどうしてきたかではなく、今どう行動するかが大事なんだよ」と。


 私に怠け心が出てくるとすぐに老師は見抜き、叱ってくださいます。

 この「今を生きる」という教えはこの坐禅堂の木版にも書かれています。いつも坐禅堂に入る前にパコパコと鳴る鳴らし物が木版です。そこにはこのように書かれています。皆様も後でご確認ください。




「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」
(しょうじじだい  むじょうじんそく
おのおのよろしくせいかくすべし  つつしんでほういつなることなかれ)




 この言葉は、いつ死んでしまうかわからない私たちは今をどう生きるかが大事である。怠(おこた)ることなく精進しましょう、という意味です。
 今は修行道場を離れ、あの老師になかなか会うことはできませんが、坐禅の最後にいつも鳴る木版の音を聞くと私はあの老師に
「坐禅はこれで終わるけれども坐禅を行じたあとどう生きるかが大事だぞ」
と励まされている気がして身が引き締まる想いがするのです。


(2018.7.19 駒沢坐禅教室より)

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第203話 「気づき」

山本 龍彦 Yamamoto Ryugen



ある老師がこんなことを言っていました。

「坐禅とは気づきである」と。

 これを聞いて私は坐禅とは何かに気づかなくてはいけないのだと思いました。

 その後何回か坐っていると、今日は特に何も気づけなかったとネガティブに考えてしまう自分がいたのです。

 そんな坐禅について、老師に尋ねてみるとこう言われました。

「気づきの為に坐るのではない。坐った結果気づくのだよ。」

 気づこう、気づこうと思って坐るとそれはかえって気づきから、どんどんから遠ざかっているということを仰りたかったのだと思います。

 何かを求めるのではなくこの時この場所と向き合っていきましょう。




(2018.7.5 駒沢坐禅教室より)

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第202話 「点・線・絵」

秦 慧洲 Hata Eshu



曹洞宗の大本山である永平寺。その先代のご住職で宮崎奕保(みやざきえきほ)という禅師様がいらっしゃいました。
 100歳を超えるご高齢の禅師様でしたが、永平寺では毎朝三時には起きて、誰よりも早く坐禅をされていた方でした。今日はその宮崎禅師の言葉を一つご紹介したいと思います。


「1日真似をしたら1日の真似だ。ところが一生真似したら、真似が本物だ」


 この言葉を聞いてみなさんはどんな印象を持つでしょうか?私はこの1日の真似というものが1つの点のようなもので、その点が毎日続けば長い長い線となるような印象を持ちました。もし線を引く事ができれば、絵を描くこともできます。点が線になり、そして一つの絵になる。逆にどんな点であっても、その点が抜けてしまえば絵にはならないでしょう。私たちが生きているこの人生も同じことが言えます。人生という絵を描くには、今日という点を打ち続けるしかありません。たとえ、今日という1日がダメな日だったと思うことがあっても、それも一つの点として日々積み重ねることで大きな絵となり、本物となる。そう思えれば少しだけ肩の力が抜けるのではないでしょうか?



(2018.6.28 駒沢坐禅教室より)

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第201話 「不立文字」

西田 稔光 Nishida Shinko



禅の精神はある言葉で表されることがあります。


「フリュウモンジ」


お聞きになったことがあるでしょうか?「フリュウ」は不可能の「不」に「立」、「モンジ」は私たちの使う「文字」という字を書きます。
不立とは表さない、文字とは言葉のことと言って良いでしょう。
つまりこれは、禅の教えというのは文字で表すものではない、という言葉なのです。

ところが古くから残る資料から今日書店に並ぶ解説書に至るまで、禅の教えは言葉となってたくさん残されています。これはどういうことでしょうか?

実はこれは、言葉に表すこと自体ではなく、それによってわかった気になってしまうことを戒めているのです。

私たちは言葉や文字によって多くを知り、伝え、残していきます。
ところが、その言葉があることによって、本来わかるはずのないものを分かった気になってしまうことがあります。例えば「命」であったり「幸せ」「無」「死」など、言葉を知ったことで本来は頭で理解しようのないものをわかった気になってしまう。
便利な世の中では、そんな言葉というものがもつ限界を忘れて、目に見える情報や言葉での表現にばかり気持ちが引っ張られてしまっているのではないでしょうか?

坐禅ではそうした日常を離れ、今こうして坐って見えるもの、聞こえる音、香り、肌の感覚、様々な想い。
あれこれと頭で考え、わかろうとするのをやめて、今はそれを感じるままに味わってみてはいかがでしょうか。




(2018.6.7 駒沢坐禅教室より)

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第200話 「喫茶喫飯」

本田 真大 Honda shindai



こうして坐禅堂の中でいただくお茶はいかがですか?
とても新鮮ですよね。私も修行道場以来でとても新鮮です。

 修行道場では坐禅堂で食事をとりますし、こうしてお茶をいただく機会も有ります。この駒沢坐禅教室で私たちが坐禅作法の指導をする際、この浄緣は足やお尻を付けないと普段お伝えしていますが、まさにこのようにお茶菓子や食器を置いて、食事をとったりお茶を飲んだりします。だからなるべく触れないようにしているわけです。

 私が修行道場にいた頃、こうして坐禅堂でいただく食事やお茶菓子というのは本当に美味しく、味わい深く感じられました。その理由の1つに、坐禅堂で、坐禅を組んで、いただくことが挙げられると思います。

 姿勢を調えて足を組み、呼吸を調える。そして食事やお茶をいただく。それ以外のことは何もありません。この「ただ、いただく」ということが、実はとても大切な事なのではないでしょうか。

 曹洞宗の教えを全国に広められ、大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師という方がおられます。この瑩山禅師様の言葉に次のような言葉があります。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」
瑩山禅師様が自分のお師匠さまに、自分の仏道の境地を具体的に示す際におっしゃった言葉です。
「茶」というのはお茶。「飯」というのはご飯のことです。お茶を飲むときはお茶を飲み、ご飯を食べるときはご飯を食べる。当たり前のことのように思えますが、忙しい日常生活を送る私たちは、実はこれがなかなかできません。テレビを見ながら、携帯電話を確認しながら、仕事のことを考えながら…。このように「ながら」でいただく食事やお茶では、その本来の味わいに気づくことは難しいのではないでしょうか。

 食事の時だけではありません。仕事をしている時でも、人と話している時でも、過去に囚われたり、先のことに思い悩んだりする事なく、目の前の事をただひたすらに行ずる。この姿勢こそ、私たちが目指すべき心の在りようなのです。

 仏教の教えは特別な手段や非日常の中にあるのではない、そして食事だけに止まらず、日常の1コマ1コマに打ち込む事の大切さを説いた言葉です。

 本日は半日参禅会ということで普段と趣向を変えまして、坐禅堂でお茶菓子を召し上がっていただきました。その中で瑩山禅師様の言葉をご紹介させていただきました。





(2018.5.26 駒沢坐禅教室より)

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第199話 「美しいものたち」

山内 弾正 Yamauchi Danjo



世の中には数多くの美しいものがあります。

朝焼けの中に佇む街路樹や、道端にひっそりと咲く一輪の花。
ショーウィンドウに映った青空や、灰色のビルにかかった小さな虹。

私たちのすぐそばにある美しいものたち。
でも、どんなに美しいものであっても、それだけでは美しいものとはなりません。


 中国の言葉に次のようなものがあります。

『夫れ美は自ら美ならず。人に因って彰わる。』(柳宗元)



だいたい美というものは、それ自体で成立するわけではない。誰かがそれを感じとって、はじめて美としてあらわれるのだ。という意味です。

美しいものは、伝える側と受け取る側。そのふたつがあってはじめてあらわれるものです。

私たちのすぐそばにある美しいものたち。
そして、目に映る景色だけでなく、私たちの内にもある美しいものたち。

その美しいものたちに気づき、美しいものとしてあらわしていくために。
独りよがりにならず、心も体もどこかに片寄るのではなく、ただあるがままに物事をみつめていくことが大切ではないでしょうか。

今日のこの坐禅の時間が、そんな気づきの一助になることを願っています。



(2018.5.17 駒沢坐禅教室より)

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第198話 「整理整頓」

武井 広機 Takei Koki



私が修行していた頃、お寺に参拝に来られた方からこんなことを聞かれたことがあった。


「お坊さんって、最低限のものだけで生活してるんでしょ?」


 確かに、修行をしていた時、身の回りの物は必要最低限のものしか持ち込むことができなかった。
携帯電話、テレビ、新聞は無論、余分に多く買った靴下に下着、ノート、何色も用意した蛍光ペン、手に塗るハンドクリームも、そんなもの必要ない!とばっさり。

 そしていざ修行が始まると、あまりの物の無さに驚愕した。みんなで使う畳の部屋には棚と衝立(ついたて)があるだけだった。



 そんな修行生活を終え、家に戻ったときに呆然とした。

きれいにしているつもりでいたが、よく見ると散らかっていた自分の部屋。
ぎゅうぎゅうに洋服を詰めこんだ箪笥、押し入れを開ければ積みあがった雑誌、棚の中もあれもこれも詰め込んでいる状態であった。
ハッと、修行中のあのみんなで使っていた畳の部屋を思い出した。
棚の中はスペースが残るほど整理整頓された部屋。思い返してみると、修行中、そんな部屋では雑念もなくどこか心にゆとりを持っていた気がした。

心のゆとり、落ち着きというが、身の回りの環境についても言えることなんだなと感じた。
改めて、身の回りの物を整えていこうと感じた。

(2018.5.10 駒沢坐禅教室より)

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第197話 「痛みを見つめる」

久松 彰彦 Hisamatsu Shogen



坐禅をしていると段々と脚が痛くなってくるかもしれません。坐禅は我慢大会ではないので、どうしても辛くなったら脚を解いて大丈夫です。
ただ少しだけ、痛みを味わう余裕を少しだけ持っていただきたいと思います。


 村上春樹の本に『走ることについて語るときに僕の語ること』というものがあります。
その中で、あるマラソンランナーが42.195キロ走る際に、頭の中で繰り返し唱えている言葉が紹介されています。
それは、「痛みは避け難いが、苦しみはこちら次第」です。


痛いと判断を下すと、私たちはそれから逃れようとします。それでもその痛みはなかなかなくならない。足を崩しても、他のところが痛くなってくる。こうした痛みから逃れようとするところに苦しみが生まれるのです。

痛みをもたらす感覚自体をなくすことはできません。けれど、そこから逃れたいという思いは和らげることができます。

それには、穏やかな呼吸を続けながら、自分の逃れたいという思いに対して覚めた眼差しを送ることが必要です。

それぞれのできる範囲で大丈夫ですので、自分の痛みと向き合ってみてください。

(2018.4.28 駒沢坐禅教室より)

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第196話 「海を渡った天才」

久保田 智照 Kubota Chisho



大谷選手の代名詞と言えば、投手と打者の両方に挑戦する…いわゆる「二刀流」です。これは現代のプロ野球においてまさに常識外れの挑戦と言っていいものでした。しかし、この二刀流への挑戦は誰もが歓迎するものではなく、常に物議を醸してきました。

 曰く、「投手と打者両方なんてうまくいくわけがない。どちらかに専念すべき」
 曰く、「プロ野球をなめている」
 曰く、「いい結果を残してもタイトル獲得は望めない」

 などなど。

 しかし、彼はそのすべてに答え続けています。日本プロ野球では、投手でも打者でも一流と呼ばれるに値する成績を残し、チームメイトやコーチ陣が驚くほど真摯な姿勢で野球に取り組み、2015年には最高勝率・勝利数・防御率という投手三冠と呼ばれるタイトルまでをも獲得し、野球ファンを唸らせました。

 これらはすべて、彼が「先入観」に囚われず、挑戦し続けた結果であると言えるでしょう。テレビの中の大谷選手がいかにも楽しそうに、また充実した表情で野球をしている姿を見ると、自分も「先入観」などという思い込みに囚われず、一丁やってやろうじゃあないか、そんな気持ちになります。

(2018.4.19 駒沢坐禅教室より)

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第195話 「追うな、追うな。」

深澤 亮道 Fukazawa Ryodo



ある禅僧がこんな言葉を残しています。

「心の中に何か浮かんできても、浮かびっぱなし、
追うな、追うな。」

人生をいかに生きるか。
これが仏教における大きなテーマだと思います。
そして、その問題に対して「一生懸命生きる」というのが一つの答えとしてあります。人生とはあっという間です。この一瞬一瞬が大切ですよ、この世は無常ですよ、だからこそ一生懸命生きなさい、と言ったところでそのことを常日頃から実感して生きていくのは大変難しいのではないでしょうか。

人は朝起きてから、夜寝るまで常に何かを考えている生き物です。そして未だ来ない先のことを考え、過ぎてしまったことにくよくよ悩み、「本当に今日はいい日だったなぁ」「一生懸命生きたな」と思う一日は少ないのではないでしょうか。私の日常もそんな繰り返しです。しかし、それこそが人間らしさであり、人間だからこそ出来ることなのかなと思います。それを認めてあげることも、一つの生き方としていいのかなと。

一方で、必要以上に先のことを考え、過ぎてしまったことを悩みすぎると、自分の成長やせっかく巡ってきたチャンスを逃すことになります。大事なことはある程度悩んだらあとは必要以上に追いかけないことなのかなと思います。
坐禅の中においても、人生を生きる上でも、


「心の中に何か浮かんできても、浮かびっぱなし、
追うな追うな。」



私はとても好きな言葉です。

(2018.4.17 駒沢坐禅教室より)